ようこそ、茨城県自治体問題研究所のHPへ!

第8号

月刊「いばらきの地域と自治」既刊号すべて


画像の説明

「いばらきの地域と自治」(第8号)


  • 行末は他力に託す天の川
  • 水音のして水見えぬ大花野 
  • 雁渡る父の遺稿の行軍記
  • 菊咲かせ晩年気負ふこともなく
  • 帰り花分相応に老いの日々

作:高島つよし
(高島剛・常総市(旧水海道市)在住、元県職員、小貝保育園長、当研究所顧問)


選挙で、本当に問われていることは

茨城県自治体問題研究所 顧問

田村 武夫

 今度の総選挙で、国民が直面している問題はなにかという点から最重要の争点をあげれば、わが国が資本主義のなかでも、ヨーロッパなどに比べ、労働者を守るルール、国民の当たり前の権利を守るルールがなさすぎるので、そこを正していこうという志向・姿勢があるかどうか。同時に、『資本主義の限界』といわれていることがら、すなわち、企業の利潤追求の行動だけに任せておいたら、金融投機の問題、地球温暖化の問題もコントロールできないので、将来的には、経済の面でも民主主義を徹底するような方向性を持っているかどうか。

 こうした未来社会へのロマンをもってがんばっている政党・候補者こそが真の意味で国民に責任を負っているといえる。

 自民党も民主党も、「ルールある経済社会を築く」「自主・自立の平和外交」という政策基軸・目標を唱えていない。政党討論会で、「共産党のいう、守られていないルールとは何ですか」との他党からの質問に、「有給休暇をとれるルール、均等待遇を保障するなど雇用のルール、皆保険制なのに医療費の窓口3割負担、中小企業いじめ」などの諸点を挙げ、「日本はあまりにも国民のくらしや権利を守るルールがなさすぎるので『ルールある経済社会』をと問題提起している」と小池晃政策委員長はのべている。

 実際、自由主義・市場経済のヨーロッパ諸国では雇用のルールが守られているが、日本ではアメリカ型の経済の仕組みのなかで労働者の基本的な権利が守られず、とくに、この間の新自由主義的な動きのなかでいっそう壊滅的になってしまった。
 経済を強くするには企業を強くしないといけないのではないかという論理は、もはや破綻している。サプライサイド(供給側=企業)強化を一貫してやってきたのが、これまでの日本の経済政策で、あまりにも偏重しすぎた。
 それをさらに加速させたのが小泉・竹中『構造改革』である。正社員の首をきって非正規におきかえる、社会保障を切り刻む、国民のもっている力が落ち込むなか、大企業支援をやり続けたことが非常にゆがんだ経済にしてしまった。
 輸出産業を否定するのではない。内需がしっかりしてこその輸出産業だし、中小企業がいきいきと経済活動をやってこそ大企業の活動も発展していくのである。
 自主・自立外交は、真に非核の日本をつくることである。自民党は、核廃絶について選挙マニフェストで一言も触れていない。民主党も核抑止論から抜け出せていない。

 現在の外交問題の焦点は、核問題である。オバマ米大統領の演説で、核廃絶が世界の動きになり始めた。唯一の被爆国として、核廃絶を後押しする積極的な外交をやっていくべきだし、核密約も問題になっているので、これを洗いざらい明らかにして、文字どおりの『非核の日本』にしていく。
 そのために、核兵器保有国が核兵器廃棄をめざす国際交渉会議を開くよう核兵器廃絶にむけた具体的なイニシアティブをわが国はとるべきである。


 投 稿 

最近の「人権事情」みたいな話

茨城県自治体問題研究所 常任理事 

山浦 五十一

   
 「最近の人権事情」みたいな話を書けという要請をいただいたので、そのままのタイトルで話をすすめたい。
 茨城県に、人権啓発を推進する部署として「茨城県人権啓発推進センター」が設置されてから5年目を迎えている。設置当初から非常勤嘱託の「人権相談員」として勤務してきたものとして、この期間を通して感じた「官製の人権啓発」と「昨今の人権状況」のギャップみたいなものの一端を書いてみたい。

1 日本は「人権一流国」か?


 昨年は「世界人権宣言」から60年目の節目にあたり、世界で様々記念行事が行われた。
 この宣言とそれにつながる国際人権条約が、その後世界に果たした役割は計り知れない。「女性差別撤廃条約」からは30年、「子どもの権利条約」からは20年がたった。日本も批准までは愚図ついたが、条約の要請に急き立てられて、女性・子どもをはじめ高齢者や障害者などの人権についてグローバルスタンダードを後追いしながら何とか国内法をその水準に保ってきた感がある。

 しかし現実は、今年の7月国連の女性差別撤廃委員会では、日本の定時報告について「日本はこの条約が単なる宣言としてみており、国内法に十分組み込まれていない。」として批判的意見が相次ぎ、従軍慰安婦問題での謝罪や性暴力を描写したゲーム対策を求めるなど厳しい注文が出された。
 また08年に成立した「障害者の権利条約」については、日本は署名したものの批准には至っていない。外国人の人権、とりわけ難民救済に関する国としてのスタンスなどに諸外国からの批判もある。30の国際人権条約のうち日本が批准したのは12の条約にとどまっている現状にある。

 さて、昨今の最も大きな人権問題は何か。
 「働きたいのに働く場がない」「働けないから生活できない」さらに「働いても最低限の生活さえできない」「生活困窮で子どもの教育も満足にできない」など、憲法の保障する人権―人間の尊厳や幸福追求権、生存権―までが脅かされる状況に立ち至ったことである。
 このことは最近自分が受けた人権に関する相談のなかでも顕著である。
 働けない悩みや生活保護の窓口に対する不満、セーフテイネットの不十分さ、多重債務の重圧からの自殺願望、貧困に起因する家庭内のギクシャクした関係などが非常に多くなっている。
 このような実情のなかで、国、地方が取り組む「人権啓発」「人権教育」は、どのようなスタンスにたっているであろうか?

2 「同和問題」の啓発モデルを引き継いだ啓発スタンス



 日本の人権問題が、わが国固有の人権問題である「同和問題」に深く関わり、すべての人権分野において同和問題の運動に誘発されて発展してきたことは間違いない。このことには大いに敬意を払いたい。しかし、その流れのなかで「人権に関わる啓発、教育のモデル」が出来てきたことも事実で、この点では少し検討が必要と思う。
 たとえば、従来、義務教育課程の学校での同和教育の主流は「部落差別の事例を視聴覚資料で見せて、感想文を書かせる」ものであった。誤解を恐れず単純にいえば、自分が持つ「偏見や差別」に気づき、他人に対して「思いやる」気持ちを育成することが人権を確立する基本だというものであった。これを『説教型(責任感型)』と呼ぶ人もいるくらいである。

 ここには、「差別や人権侵害が起きるのは、基本的には国民の意識の側に問題があり、その人たちの人権感覚を「正解」に導くことが人権啓発であり人権教育である」とする考え方がある。今もって、「人権教育」=「道徳教育」と考えている管理者もいるほどである。

 先に挙げた相談事例などに伺えるように、人権問題は、単に私人の間にある偏見や差別のみが問題で、これを「啓発」することだけが「人権文化・人権感覚」を育てることではないという思いがますます強くなるが、依然としてこのモデルによる刊行物や視聴覚資料が多いのが実態である。
 なるほど、最近は近隣関係の「人権侵害」の相談も増えてはいる。家庭内での虐待の相談も少なくない。しかし、よくよく話を聴くとその裏には、奥深い制度の歪み、どうしようもない社会的原因が横たわっていることがある。在宅介護で起きる近親者の高齢者虐待などには、「介護する側の人権」に全く配慮が行き届いていない制度のゆがみを感じる。現れた人権侵害とされる事象が、単に個人のレベルでの啓発だけでは解決できないものが数多くあることが分かってくる。
 隣人同士の問題では、コミュニケーションの欠如や不十分さからくる誤解など、「偏見だ、差別だ」という次元ではないものが多く、決定的な決別に至る前に話し合えば糸口が見つかったものを…と悔やまれることが多いのである。基本的に「差別」とは、個人対個人のレベルで引き起こされるものではない。権力とか財力、暴力、又は多数など、歴然とした力関係の差を背景として引き起こされる事象だと思う。このような事象の本質と解決の方向に目を向けさせることが、「啓発」の主眼であると感じている。

3「企業人権」の状況


 もう一つ「同和問題」啓発モデルの問題は、特に大きな企業などに見られる風潮である。言い方は悪いが「かくれみの研修」の定式化がある。
 かつて「同和問題」の運動団体の一部で「差別事象の確認と糾弾」という方式に強い傾斜を示した時期があった。「差別の事象」が発覚すると、「差別者」のほかに企業などのトップなども確認会場に呼び出し、「差別の正解」を理解するまで強く反省を迫るというものであった。これが、後に「同和問題はこわい、関わりたくない」という感覚を生み、「えせ同和行為」が横行するベースの1つになったのだが、企業側では「自主的に」業界内部で同和問題の研修を定期化するようになった。このこと自体には何の問題もないし、むしろ好ましいことである。しかし、「同和問題」だけではない他の人権課題を含めた研修に変わってきた今でも企業側では、『「同和問題」の研修をしています。』というポーズを運動団体に示しておきたい思惑が見え隠れする場合が多い。

 企業について付け加えれば、たとえばこのような実態にある。
 グローバルに展開する日本の企業は、世界でもトップクラスの数を占めている。
 1999年、前国連事務総長コフィー・アナンが提唱した「グローバル・コンパクト」(注1)に参加している世界約5,000企業のうち日本の企業は約60企業である。日本の経済団体の役員を務める自動車、カメラ、IT企業などはほとんど参加していない。この「コンパクト」は国際展開する企業が最低限守るべき10の項目を定めたもので、トップの2つに人権重視の項目が書かれており、2年に1度、国連に対して各項目に対する実績の報告が義務付けられている。
 偽装派遣や派遣切りなど労働関係法令のコンプライアンスさえおぼつかない企業には参加することが無理なのだろう。日本の大企業の国際水準である。

 またひところ、胸を張って自社のCSR=(企業の社会的責任)を宣伝していた大企業が、最近の経済情勢からひっそり鳴りを潜めている有様で、その一環として位置づけた「社員人権研修」も実施企業が減ってきている。

4啓発に必要なマインドとは?

 「人権研修」の講師で呼ばれて話をすることが多いが、不思議な感覚にとらわれることがある。目の前の社員や公務員は新規採用者であったり、きつい実務に追われる中堅職員であったりする。高齢者の虐待防止の話を施設の非正規の職員にすることもある。
 だが、自分のしている話の内容は、すべて企業のトップや管理者に考えてもらうべき内容なのである。何よりも国を動かしているトップにこそ聞いてほしい人権の話なのである。


 個人のレベルでの啓発では「セルフエスティームとアサーティブネス」(注2)の重要性がよく言われる。また、憲法を地方自治のレベルで定着させる啓発が人権啓発の中心であるという思いが一層強くなる。弱い立場の少数者が人権を侵害されたとき、最終的にその矛先は国家権力に向かう以外にない。

 「人権の正解」を求めるたり押し付けたりするのではなく、様々な価値観があることに気付くことが大切だと思う。そして、自分で考え、行動する態度を見出すこと、ここに「啓発」としての原点を求めて、工夫を凝らしたいものだと考えている。

 「国(官)が人権啓発に口を挟むべきではない。」とする意見がある。なるほど人権文化確立の成否が「個人の偏見や差別」にだけに関わり、国や行政の責任を免罪するような啓発だと大いに問題があるだろう。「「心理的差別」がなくならなければ人権の確立はできない」などと言って、人権の根幹にある「内心の自由」に踏み込んで「正解」を解説する人権教育などは、軍国日本を思い出させる。

 その点ではこの意見を否定するものではないが、官制の啓発活動だってやり方によっては、「捨てたものではない」と言わせたい気持ちも理解してほしいと思っている。


【注1】
 GC(グローバル・コンパクト)は、企業に集団行動を通じて責任ある企業市民として向上するため、次のことを求めている。
人権
1.企業はその影響の及ぶ範囲内で国際的に宣言されている人権の擁護を支持し、尊重する。
2.人権侵害に加担しない。
労働
3.組合結成の自由と団体交渉の権利を実効あるものにする。
4.あらゆる形態の強制労働を排除する。
5.児童労働を実効的に廃止する。
6.雇用と職業に関する差別を撤廃する。
環境
7.環境問題の予防的なアプローチを支持する。
8.環境に関して一層の責任を担うためのイニシアチブをとる。
9.環境にやさしい技術の開発と普及を促進する。
腐敗防止
10.強要と賄賂を含むあらゆる形態の腐敗を防止するために取り組む。

2009年1月24日現在 全体加盟企業数4,996 うち日本59

【注2】
 「セルフエスティーム(selfesteam)」
自己尊重、自己肯定を意味する言葉。あるがままの自分を肯定すること。「自己愛」とは区別される。
 「アサーティブネス(Assertiveness)」
本来の訳語は、「自己主張すること」。
ここではアサーティブであることは自分の要求や意見を、相手の権利を侵害することなく、誠実に、率直に、対等に表現するということ 。

 私たちが日常生活のなかで、ついとりがちなアサーティブでないコミュニケーションのパターンには、次の3つがあるが、このいずれでもない方法。
・人に食ってかかる攻撃的なタイプ(攻撃的)
・攻撃性を隠して相手をコントロールするタイプ(作為的)
・自己犠牲的で、ふみにじられても黙っているタイプ(受身的)

powered by HAIK 7.3.7
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional